青木賢一郎:「コントラバス奏者・指揮者 x 医療事務」|音楽・医療・介護で社会に貢献する生き方♪【前編】
平日はクリニックの事務長として医療業界で働き、週末はコントラバス奏者や指揮者として音楽活動を行う青木賢一郎さん。
20代前半で「音楽一本での生活」をやめ、「コンビニ経営」「介護・医療業界」と渡り歩いた青木さんの人生には「現実をしっかり見つつも“音楽”と真摯に向き合いたい」という純粋な想いがありました。
「決して他業種に転職したわけじゃない」というニュートラルな考え方には、「これからの時代を音楽と共に生きるヒント」が隠されています♪
(【前編】【後編】に分けてお届けします♪)
『音TOWN』(おんたうん)は、『音楽“と”生きる街』をコンセプトに、(プロアマ問わず)音楽家がより生きやすくなるために、主に音楽以外の有益な情報をお届けしています →詳しくはコチラ
この特集は『音楽 x ◯◯』のように、複数の職業を掛け合わせて活動をしている方(“二足のわらじ”の方)をご紹介するコーナー。音楽(演奏)以外のスキルを組み合わせる柔軟性・知識が、多様化する現代をより「ポジティブ」「ハッピー」に過ごすヒントになれば幸いです!
この記事を読むと役に立つ人は!?
・一般職と音楽(演奏)活動の両立を考えている方
・音楽以外にも好きな事、得意な事があり、それを生かしたい方
・音楽で「社会貢献」を考えている方
読んだらどんな良い事が!?
・他分野で生計を立てながら音楽活動を継続する方法が分かる
・音楽以外に本業があっても、音楽を生かして「複業」「副業」をする方法を知る事ができる
・「音楽を通して人を喜ばせる」本質に触れる事ができる
音高・ピアノ科を目指した小中学校時代

藤井:はじめまして。本日はどうぞよろしくお願いいたします。
まずは音楽を始めたきっかけを教えていただいてもよろしいでしょうか。
青木:僕は出身が静岡県浜名郡雄踏町(現在の浜松市)で、父が楽器店勤めのサラリーマン、母が音大出身で自宅でピアノ教室という家庭に育ったんです。
そんな環境だったので、気付けば自然と音楽が身近にあってピアノは4歳から始めました。
夕方以降、生徒さんのレッスンが終わった後は僕の練習時間という生活パターンになっていましたね。
藤井:クラブ活動(部活動)などはやらずにピアノ一筋だったんでしょうか。
青木:小1から中2は父の転勤で札幌にいまして、本当は野球がやりたかったんですけど、「突き指」が心配で断念し、プラモデルが好きだったので、「鉄道模型部」とか「将棋部」といった文化系の部活に入っていました。
藤井:では、やはりピアノがメインで、進路は「音高」に絞っていたんですね。
青木:当時、ピアノが弾けると合唱コンクールや全校集会の校歌の伴奏を任される事が多くて、そこに居場所を感じていました。
そんな小中学校生活で、ピアノと向き合う時間は心地良かったので、身を委ねるように「進学するなら東京音大付属高校」と考えていたように思います。
藤井:当時は「まず音高に受かろう!」だったのか、「将来、ピアニストになるぞ!」で言うとどちらですか。
青木:前者ですね。
先の事はそこまで考えられず、何より「音高に受かる事が最大目標」でした。
今になって思うのは、
「(技術的に)ピアノを弾けるようになる」のと「音楽家になる」のはイコールではない
という事なんですけど、当時はまだ「音楽そのものと向き合う」という深い考え方には至らず、「周囲より少し秀でていたピアノという特技で進学できれば良いな」という程度でしたね。


コントラバス・指揮で音楽の礎を築く

藤井:実は今回、以前『音TOWN』でインタビューさせていただいた株式会社ソナーレ副社長の丸山和明さんから青木さんをご紹介いただいたんですが、丸山さんとは「東京音大付属高校」・「東京音大」の同級生だったんですよね。
音高・音大時代はどんな学生生活でしたか。
青木:音高のピアノ科になんとか入る事ができ、「さあ、ここから本格的にピアノを練習するぞ!」となれば良かったんですけど、周りを見渡すと自分の何倍も努力してきた先輩や同級生がたくさんいて、衝撃を受けたんです。
藤井:丸山さんも同じようなエピソードを話されていましたよね。
青木:それから、音高の特殊性は、「学年に女子100名・男子10名」のような割合だった事。
少数の男子で固まって、支え合って、励まし合いながら高校生活を楽しんでいました。
丸山君もその一人で、悪友たちと遊びに誘うと彼は真面目だったので「(ピアノの)練習をしなきゃ」と言われてよく断られたのが今では良い思い出です(笑)。
とは言え、実は小学校高学年から少しドラムを習わせてもらっていた事があって、丸山君はエレキギターが弾けたので、一緒にバンドを組んでいた事もあるんですよ。
藤井:幼少期に「クラシックだけ」「ピアノだけ」ではなく、いろいろな楽器に触れられるって、音楽の幅が広がって良いですよね。
青木:どうやら僕はリズム感に難があったらしく(笑)、幸い父が楽器店勤務だった事もあって、「音楽教室」に通わせてもらえたんですよね。
エレクトーンや作曲も少し習わせてもらいました。
後にフォルクローレなど、クラシック以外の音楽にも関わる事になるので、こういった経験は役に立っているかもしれません。
藤井:バンドではベースではなく、ドラムだったとの事ですが、コントラバスとの出会いは?
青木:副科でピアノとは別に何か一つ楽器をやることになって、丸山君と一緒にオーケストラの授業を選択する事になったんですが、2人ともコントラバス担当になったんです。
丸山君は「すぐに音が出せて楽そうに見えた」という理由(笑)。
僕は本当はチェロがやりたかったんですけど、先ほどもお話ししたように、男子が少なくて体が大きいという理由でコントラバスになりました。
藤井:あまり能動的な出会いではなかったんですね(笑)。
青木:当時、正直ピアノでは「“音楽”が面白い」「“音楽”をやりたい」という内面から湧き出てくるような意識は芽生えなかったんです。
藤井:ピアノは「弾くという行為」や「技術向上」が目的で「“音楽”そのもの」ではなかったという事でしょうか。
青木:コントラバスとの出会いは確かに能動的ではなかったですが、齋藤順先生に基礎から教わり、オーケストラを経験できた事と、もうひとつ、紙谷一衛先生の指揮のレッスンも受けられた事で、初めて本格的に音楽に興味が湧いてきてのめり込んでいった感じですね。
これが僕の「音楽の礎」になり、大学では転科試験を受けて、ピアノ科から「器楽科・コントラバス専攻」に移りました。
以降、コントラバスと指揮を専門に学ぶなかで、もちろん“技術”の勉強も大切ですけど、
「いちばん大切なのは“音楽”の勉強」
という考えに至りましたね。
ちなみに今は「ピアノは一人でメロディ、ハーモニー、リズムまでできてしまうマルチで素晴らしい楽器」だと思っていますよ。
コントラバスと指揮を学び、スコアリーディングなどで音楽全体の構造を理解できるようになり、改めてピアノの偉大さに気付かされましたね。
「解釈や表現方法」
「どういう音楽を目指したら良いのか/どういう音楽が求められるのか」
また、これらに必要な「知識や技術」など、「音楽とは何か」をひたすら考え続けていた音大生活でした。
違和感を覚えた“音楽一本”の生き方|そして“コンビニ経営”へ
<中高生のオーケストラの指導の様子>
藤井:音大卒業後はどんなお仕事をされたんでしょうか。
青木:大学時代から、「プロオケ」「市民・学生オケ」「スタジオ録音」「学校の音楽鑑賞会」などでコントラバスの演奏経験を重ね、指揮でも「市民・学生オケ」を指導する機会をいただいていて、卒業後もしばらくの期間、フリーランスの奏者として活動しました。
当時は音楽家一本で食べていこうと思っていました。
オーケストラのオーディションにも何度か挑戦した事がありましたね。
卒業して2年くらい活動したものの、“いろいろと思うところ”があり、音楽の仕事は一旦辞め、某大手のコンビニ経営を(世田谷で)始めたんです。
藤井:なんと!? 20代中盤のまさにこれからというタイミングで、かなり大きなキャリアチェンジですよね。
「思うところ」というのは具体的にどのようなものだったんでしょうか。
青木:卒業後、フリーランスとしてさまざまなお仕事を経験するなかで、自分なりの「理想の音楽との向き合い方・生活のイメージ」と、「現場の仕事」の間にギャップを感じたんです。
プロの音楽家には「芸術家」と「職業音楽家」という二つの側面がありますよね。
この二つを同時に体現できれば一番良いと思うんですが、なかなか難しい面もあると思うんです。
藤井:『音TOWN』でも伝えている内容なんですけど、おそらく日本で「プロの音楽家・演奏家」という肩書きの方は、ほとんど「職業音楽家」なんですよね。
『フリーランスの音楽家が「お金」について学ぶ本当の意味!11の質問付き♪/Vol.21』
参考:「職業音楽家」と「芸術家」
青木:「職業音楽家」として生きていくとしたら、自分が求めている「芸術性」との間には乖離が生まれるケースもあるかと思うんです。
「生活/収入」のために自分の中で折り合いを付けて演奏の仕事をしないといけない場合もありますよね。
藤井:そうでないとお金がもらえない、生活ができないですからね。
青木:僕はすでに結婚もしていたので、家族に生活の不安は与えずに、自分がやりたい、正しいと信じる音楽、芸術の勉強や演奏活動を両立、継続するにはどうしたら良いのかを真剣に考えた末、出した結論が、
「フリーランスの音楽家としての仕事には一旦区切りを付け、他業種の経営者になる」
という事でした。
大学時代から続けていた音楽の仕事のみを闇雲、がむしゃらに続けるだけが正しい選択肢ではないと考えたんですよ。
そんなタイミングで、たまたま新聞で「コンビニの経営者募集」という広告を見付けて「これだ!」と思い、応募したのがきっかけです。
コンビニ経営での学びは“人との関わり”
藤井:これまでの人生をずっと音楽に捧げてきた方にはなかなかできない柔軟な考え方や行動力ですね。
コンビニ経営での「学び」で印象に残っている事はありますか。
青木:一番大きいのはやはり「人との関わり」ではないでしょうか。
お客様だったり、従業員だったり、本部のフォローしてくださる方だったり、夜中に弁当や飲み物を配達してくださる業者さんだったり。
従業員は高校生から元気な70代くらいの方まで働いてくださっていて、20代中盤で経営者として関わらせてもらったのは貴重な経験です。
人から頼りにされるのはありがたいですし、生きがいにもなりました。
また、人との繋がりによって世の中が成り立っているのを肌で感じる体験でしたね。
藤井:もちろん音楽業界も同じであるはずなんですけど、「浮世離れ」といった言い方もされるように、少し一般社会と乖離してしまっている業界と言える気がします。
コンビニ経営はコミュニケーション力が高くて、人が好きでないと出来ない仕事だと感じますね。
そういったスキルが現在の「オーケストラ」や「指揮者」という仕事にも役立っているんじゃないでしょうか。
青木:そうかもしれないですね。
藤井:逆に大変だった事は?
青木:体力ですね(笑)。
先ほども話した通り、体育会系の人生を歩んできませんでしたから…
やはり中学、高校、大学と運動部でガッツリ鍛えていた人たちとは心身共にパワーが違う気がします。
藤井:たまにリタイアされてから夫婦でコンビニ経営をされているようなお店で、シフトがうまく組めなかったのか、深夜勤務をされている高齢の方を見かけます。
「あの年齢で徹夜はきついだろうな…」と心配になりますし、30代、40代でも大変じゃないかといつも思いますね。
青木:実際、シフトが入っているアルバイトさんが来なかった事もありますし、万引き等の対応もありました。
「世の中にはいろんな人がいるな…」という体験でしたね。
10年弱くらい続けていたんですが、一緒にお店で働いていた家族の体調不良もあって経営からは退く事になりました。
でも、今でも「やって良かった」「やりがいがあった」と感じていますよ。
藤井:コンビニ経営をされていた期間は音楽活動は全くされなかったんですか。
青木:中途半端にできる仕事ではないので、お話しした通り、一度完全に音楽からは離れたんですけど、何年か経って大学時代の友人に誘われてフォルクローレのバンドを手伝った事をきっかけに、音楽のある暮らしが戻り始めました。
経営をしながら、「室内楽」「アマオケのお手伝い」「スタジオ録音」「学校の音楽鑑賞教室」「コントラバス指導」など、少しずつ幅が広がっていきましたね。
これらは今でも続いていますよ。
コンビニ経営から医療・介護の世界へ
<有料老人ホーム勤務の様子>
藤井:コンビニ経営を辞めた後、音楽以外のお仕事もされていたんですか。
青木:妻が医療事務の資格を取得して、クリニックに勤め始めたんです。
僕はコンビニを辞めてからしばらくは音楽の仕事だけでしたが、この頃には子どももいましたので、安定収入を得るために妻に続く形で医療事務の資格を取り、総合病院に正職員として入職しました。
藤井:医療事務というお仕事を選んだのにはどんな理由があるんでしょうか。
青木: 「生活の安定のため」と「時間のやりくりができる職場」だという事ですね。
「平日はクリニック/土日は音楽」という風に、週末に音楽に集中する時間を意識的に作る事で、毎週自分をリセットできるのがメンタル面でも良いところだと感じています。
ずっと音楽でもないし、ずっとクリニックの仕事でもないので、音楽の勉強にも集中し本気になれるし、それがあるから、週明けからまたクリニックの仕事にも注力できるんじゃないでしょうか。
藤井:メリハリがしっかりしていて、まさに「相乗効果」ですね。
『三原田賢一:「最先端医療研究」と「テューバ」の両輪で相乗効果を生み出す♪』
参考:「仕事と音楽の“両輪”で“相乗効果”を!」
『浅野涼:「医師 兼 ピアニスト」オンリーワンの生き方♪』
参考:「「医師」と「ピアニスト」の両立が人生を深める!」
青木:一方でデメリットは、やはり「時間の制約」でしょうか。
限られた時間の中でパフォーマンスを最大限発揮するためには、「練習の設計」や「身体・頭の使い方」に工夫が必要ですよね。
また、年齢と共に心身のパワーが落ちてくるのは受け入れないといけない事実だと考えていて、「自分自身との上手な付き合い方」や「ペース配分」「休息」は重要になってきます。
『寺本昌弘:熊本を拠点「システムエンジニア 兼 トロンボーン奏者」という生き方♪』
参考:「続ける努力・休む勇気」
藤井:事前に拝見させていただいたプロフィールによると、介護関係のお仕事もされていたようですね。
青木:実は40代で一度病院を辞めて、東京の中野でデイサービスの事業所を立ち上げているんです。
藤井:すごいですね! コンビニ経営の後はデイサービスですか!?
青木:病院では事務職だったわけですが、その頃は、「他職種連携」と言って、事務職もいろんな現場に参入していました。
直接対応する専門職と事務職では「専門用語」の種類が異なったり、意味が分からないという歯痒い経験もあり、休みの日を使って勉強し、介護の資格も取得したんですよ。
資格取得のためには実習もあって、デイサービスに行った時に、
「こんなに人の役に立つ仕事があるのか!」
と感じたんですよね。
一時期在籍していたリハビリの病院では、退院した後も引き続き介護が必要な患者様が多いのですが、そういった方々の役に立ちたいと思い、少し調べてみたところ、自分でも立ち上げられそうだと分かり、退職し、事業所を始めたという流れです。
デイサービスというのは、朝に利用者の方をお迎えに行き、「食事・入浴・機能訓練・レクリエーション」などのサービスを提供し、夕方にまた自宅にお送りするという内容です。
午後には必ず「音楽の時間」を作って利用者様に楽しんでいただくというのが「特長・売り」として他社との「差別化」を図っていました。
藤井:なるほど。そこでこれまでの音楽人生も活きてくるわけですね。
介護のお仕事は継続されているんですか。
青木:事業を譲渡し、今は他の方が継続されています。
直近では昨年末まで有料老人ホームの施設長を務めていました。
その後、家族で「東京よりもう少し海があるような自然豊かな場所に移りたいね」という話になり、神奈川県の横須賀市に引っ越し、現在は平日の日勤フルタイムでクリニックの事務長職を務めています。
→【後編】へ続く(現在の音楽活動/仕事・人生への向き合い方/若い世代へのメッセージなどをお届けします♪)
青木 賢一郎(Kenichiro Aoki)東京音楽大学付属高校ピアノ科卒業。東京音楽大学コントラバス科卒業。ピアノを中島和彦、小林出の両氏に、コントラバスを永島義男、斉藤順の両氏に、指揮を紙谷一衛氏に師事。
現在フリーのコントラバス奏者として、スタジオ録音や、オーケストラへのエキストラ出演、室内楽等で活動。またアマチュアオーケストラの指導も精力的に行っている。
シンフォニエッタトゥッティの指揮者は2004年より務めている。
また、鶴見室内管弦楽団のトレーナーを創立時より務めているほか、介護施設等へ音楽を届ける活動も積極的に行っている。
藤井裕樹/音TOWNプロデューサー
【株式会社マウントフジミュージック代表取締役社長・『音ラク空間』オーナー・ストレッチ整体「リ・カラダ」トレーナー・トロンボーン奏者】 1979年12月9日大阪生まれ。19歳からジャズ・ポップス系のトロンボーン奏者としてプロ活動を開始し、東京ディズニーリゾートのパフォーマーや矢沢永吉氏をはじめとする有名アーティストとも多数共演。2004年〜2005年、ネバダ州立大学ラスベガス校に留学。帰国後、ヤマハ音楽教室の講師も務める(2008年〜2015年)。現在は「ココロとカラダの健康」をコンセプトに音楽事業・リラクゼーション事業のプロデュースを行っている。『取得資格:3級ファイナンシャル・プランニング技能士/音楽療法カウンセラー/メンタル心理インストラクター®/安眠インストラクター/体幹コーディネーター®/ゆがみ矯正インストラクター/筋トレインストラクター』







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